理不尽な兄との攻防戦3


一人、百面相をしながら過ぎていった授業。教師の声は右から左へ。そんな状態になってしまった原因でもある弁当箱は今は空になり、鞄の中に収まっていた。

「………」

無意識に人差し指で唇をなぞり、ハッと我に返る。顔に集まった熱を首を横に振って振り払い、思い出した出来事を一緒に意識の中から追い払う。

気付けばショートホームルームも終わり、いつの間にか放課後になっていた。

「はぁ…っ、…帰ろう」

椅子から立ち上がり、机の横に掛けてあった鞄を手に取る。少しでも気を抜けばぶり返してしまいそうになる熱に、俺は混乱したまま教室を後にした。

そして、生徒用玄関で靴を履き替え、一歩外に出て足を止めた。

「うげっ、雨降ってるし」

あいにく置き傘なんて物は無いし、友人達も俺がぼんやりしている間に帰ってしまった様だ。

「何でこう…、それもこれもみんな兄貴のせいだ」

兄貴が珍しく弁当なんか届けにくるから。しかも、学校であんな…っ。誰かに見られでもしたらどうするんだ!

「そもそも何で…」

ふっと不意に苛立ちが沸く。

「そうだ、何で俺がこんな目に合わなきゃならねぇんだ!」

すると今までの出来事がふつふつと脳裏によみがえってきて、胸の内に燻っていた熱は憤りへと摺り変わった。

「帰ったら覚えてろよ兄貴!」

その勢いのまま、雨が降り続ける中、俺は家に向かって駆け出した。







水を含んで少し変色してしまった学ランを玄関で脱ぎ、上から三つボタンを開けたワイシャツという楽な格好で玄関を上がった。

「ただいま〜…って、そういや母さんは今日から近所の人達と旅行だっけ」

父さんは夜遅くなるって言ってたし、兄貴は…靴があるから居るようだけど。

リビングのソファに鞄と学ランを放り投げ、洗面所にタオルを取りに行く。前髪からポタポタ落ちる滴を廊下に落とさないようにしながら洗面所のドアを開けた。

「ぶっ!?」

そこで思いきり何かにぶつかる。

「ててっ…」

ぶつけた鼻を右手で押さえ、目の前に飛び込んできた肌色に恐る恐る顔を上げればそこには。

「げっ!」

引き締まった上半身を惜し気もなく晒し、下は黒のスラックス。頭からタオルを被った兄貴がいた。

「兄貴に向かってげってのは何だ葉月」

絡んだ視線の先でゆるりと吊り上がる唇が。
いつにもなら気にならないのに何故か…。

「っ…、ぶつかったのは悪かったよ」

そんな自分に狼狽えつつ、俺は不自然にならない程度にそろりと兄貴から視線を外して言う。

「俺はただタオルを取りに…」

「おい」

しかし、続く言葉は強い力で顎をとられ途切れた。

「人と話す時は目ぇ見て話せ」

ばちりと間近で絡められた視線に、ひゅっと息が詰まる。無駄に跳ねた鼓動に冷めた熱が振り返しそうになる。

――っ、やばい。何これ。どっか可笑しい、俺。

自分でも顔に熱が集まるのが分かる。じわりじわりと見えない何かに侵される。

「もしかしてお前…」

クツリと低く笑った声が鼓膜を刺激し、顎を掴んでいた右手の親指がつ…と昼の出来事を思い出させる様に俺の唇をなぞった。

「して欲しいのか?」

「〜っ、だ、誰が!ふざけんのもいい加減にしろよ!」

キッと兄貴を睨み返し、顎にかけられた兄貴の手を振り払う。兄貴の横をすり抜け、俺は考えも無しに洗面所内へ…。

バタンと背後でドアが閉まる。閉めたのはもちろん…

「言うようになったじゃねぇか葉月」

駄目だ、兄貴のペースに呑まれるな。今日こそは言ってやるって決意したんだ。

俺は目的でもあったタオルを手に取ると、深く息を吸って吐いてから兄貴を振り返る。

「そんなことよりもう止めろよ。何で俺にキスなんかすんだよ。兄貴はからかってるつもりだろうけど、俺、男だし…兄弟だろ。可笑しいじゃんか」

ジッと真剣な目をして言い返せば、兄貴は浮かべていた笑みを引っ込め、くっと口端だけを吊り上げた。

「可笑しい?何が?」

「何がって…男同士でキスなんかしないし、それに俺達兄弟だろ」

「だから?」

初めて見る、感情の読めない目。口許は笑っているのに目が全然笑っていない。ぞっと背筋に走った震えに、俺は虚勢を張って返した。

「だから、それが可笑しいって…」

言い切る前にばんっと勢いよく顔の横すれすれに右手が置かれ、びくっと肩が跳ねる。

「誰が言った?」

「誰って…常識、だろ?」

洗面台があってこれ以上後ろには下がれない。俺は気持ち的にじりじりと後退して静かな眼差しで見下ろしてくる兄貴を見上げた。

途端、すっと鋭くなった眼差しにぎくりと体が強張る。

「はっ、つまらねぇ。模範的な回答だな」

「なっ!」

ニィと獰猛に笑った兄貴に言葉を紡げなくなり、背中を冷や汗が伝う。

「お前は俺よりその他大勢を信用するわけだ。…なぁ、葉月」

一段と低くなった声音で名前を呼ばれて、どくんと鼓動が脈打つ。
無謀なことにここで俺の生来の気の強さが顔を出してしまった。

「っ、そうは言ってないだろ!俺はただ常識、を…」

「へぇ…。なら、当然お前は俺を信じるよな」

疑問系でないどころか、ほぼ命令系に近い。頷いたら一貫の終わりの様な気がして俺は押し黙る。
…それがいけなかった。

「どうもお前を甘やかし過ぎたようだな」

そんな、甘やかされた覚えはひと欠片も思い浮かばない。しかし、俺は懸命にも言葉を飲み込み…。

「…躾しなおすか」

ひっそりと耳に届いた恐ろしい台詞に、俺は力の限り兄貴を突き飛ばしていた。
後先を考えず。ここが洗面所という密室だと考えず。

僅かによろけただけで踏み止まった兄貴の顔は恐ろしくて見れない。分かるのは突き刺さる視線の強さが半端無いこと。

「ほんっといい度胸じゃねぇか」

無造作に顎にかけられた兄貴の手に抵抗する勇気はなく。きゅぅと締め付けられた心臓が何を意味するのかこの時の俺はまだ知る良しもなかった。



(俺は兄貴に躾られた覚えはねぇ!……たぶん)
(昔から、兄ちゃんって俺の後を付け回してたのはお前の方だぜ)


END.

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